震災10年のあゆみ NCMジャパンの活動記録

東日本大震災から10年。私たちに備えられていたマインド、

示されたミッション(使命)―弱者に寄り添い、実践する

2011年3月11日14時46分、震度7、マグニチュード9.0規模の東日本大地震が発生。大津波は、見境もなく街を呑み込み、最高40mほどの高さに達し、凄まじい勢いで小山を駆け上った…。

あれから10年、私たちの復興支援のボランティア活動も教団の内と外で(JNCM時代とNCMジャパン時代)通算10年を数えます。NCMジャパンの活動は現在京都事務所(花園教会内)が中心となり、子ども支援を行っていますが、この節目の年を機に、今までの10年の歩みを振り返り、私たちに備えられていたマインドと示されたミッション(使命)を見つめ直し、私たちがこれから歩むべき道、ビジョンを模索してみたいと思います。

そもそもJNCM-Japan Nazarene Compassionate Ministries(日本ナザレン国際援助委員会)<JNCMのホームページ>の精神は、「キリスト者の共感の実践を実現していく働き」を根底に据えています。「具体的には、世界の地震・水害等の災害地への援助、戦争による難民、飢餓に対する食糧や自立援助、伝染病などの疾病には医薬品の提供、そして、貧しい地域の人々に対しては教育の機会を与えたり、施設建築の援助を行ってきました。」(JNCMのHPから)

最大80cmほどの地盤沈下により下水が逆流し、随所に水たまりができていた。(2011年6月中旬石巻市の光景)

泥出しのボランティア活動が一段落した後は、委員の一人が現地に常駐し、海苔の養殖支援、避難所での映画会や音楽会の実施、編み物教室、足裏マッサージ(避難所で行い好評でした)、自宅避難者3000人のうち400人に対する聞き込みアンケート、さらには東松島市内外の児童たち全員へのスイーツ配布、学童保育に学習支援へと、支援活動の種類と規模は地元の方々の切々たる求めに誠実に応えていくうちに量的にも質的にも徐々に変化していきました。そしていつしか私たちは地元で「ナザレンさん」と呼ばれるようになっていました。なぜ、私たちのような小さな群れがこれほどまでの活動を実践できたのでしょうか。

私たちのボランティア活動をあれほどまでに駆り立てたもの。ひとつには、1900年以後世界でも4番目の規模という巨大地震による大津波と火災により、12都道県で2万2000人もの犠牲者を出した被害の大きさに、全国のナザレン教会から尊い復興支援金が集まり、米国はじめ世界中から祈りとまごころと共に多額のNCM献金が寄せられた賜物により私たちは勇気を与えられ、まずはそれが原動力になったからと言えます。

それ以上に、私たちの中にすでに備えられていたマインドの働きをあげなければなりません。その答えはニュースの題字横にあるNCMロゴが示しています。そう、「善いサマリア人たれ」と。弱者に常に寄り添うこのマインドこそJNCMとNCMジャパンの両者に属する者たちが共有するマインドに違いありません。しかし、同じマインドを持ちながら大きく異なる点があることにも触れておきましょう。それは、JNCMは宣教を行うが、そこから派生的に且つ必然的にできたNCMジャパンは伝道活動をしない、という点です。

この点は2015年6月、NPO法人NCMジャパン設立時の定款にも明確に記載してあります。両者の違いをごくかんたんに言えば、宗教法人では壁となる公的資金の援助がNPO法人ではそれによって妨げとはならない、ということです)。

この点が異なるのみで、じつは私たちに課された、果たすべきミッション(使命)も誤解を恐れずに言えば、すでに私たちにすでに与えられているのかもしれません。私たちに課されたミッションはさまざまな形で示されます。

「JNCMニュース」の2011年7月1日号の巻頭言の見出しに『一番の弱者は助けを求める声すら出ないー届かぬ被災者の心の叫び ますます重要な被災者と行政を繋ぐ架け橋としてのミッション(使命)』とあります。これはコロナに苦しむ今の時代も同様です。助けを求めようとしても、どこへどうすればいいのか途方に暮れる。コロナで職を失った、稼ぎがまったくなくなった…自殺者も増えています。子どもたちはいちばんの弱者です。

京都・花園教会は小さいながら絶滅危惧種が多数いるユニークな水族館を開設し、居場所をなくした子どもたちのため居場所支援を始めたところ、多くの子どもたちが集まるようになり、行政の支援も得るようになった、というように…。私たちが弱者に向き合い、弱々しい声に耳をすまし、目をこらす時私たちが果たすべきミッションは自ずと示されるのでははないでしょうか。あとは実践あるのみということです。

被災地復興支援活動アラカルト

●市長の「助けてください」という悲痛な叫び

震災から役9か月、クリスマス間近な12月12日、アメリカから海外NCMの総責任者ボリンジャー師ら3名が来日、さらなる復興支援のため東松島市を訪れ、阿部市長をはじめとする東松島復興協議会(同年9月に発足、ナザレンは幹事団体)代表と意見交換の場を持ちました。その折、阿部市長は「国民の支援がなければ復興は成し遂げられない。どうぞ助け、支えてほしい」と切々と訴える場面がありました。

その後小学生の学習遅れや学童保育の問題が浮上し、東松島市教育委員会、小学校などから強い要請を受け、現地で人を雇い、2校の校庭に建てられたプレハブで学童保育の時間を利用して学習支援を行ったほか、関西地区の大学生を中心に夏休みに集中学習支援も行うなど多岐にわたる支援を行いました。

●機動力を発揮したJNCM

震災から1年後、2011年の暮れが近づく頃のことです。

「仮設住宅と半壊した自宅避難者の冬支度の支援が必要になり、急遽全国69教会に毛布などの献品を呼びかけたところ、続々と支援物資が集まり、献品に代えて現金27万円が送られ、50台のこたつを購入することができました。」

このほかに、震災の翌年2月に全国菓子連合会の協力を得て、大阪から4トントラック2台(だったと思います。篠澤師が詳しい)を連ね、宮城・岩手・福島各県の児童全員に「お菓子とメッセージ届ける」という、Power of Sweetsプロジェクトを行いました。(まだまだ生活の不安定な時期スイーツはたいへん歓迎されました)。(「JNCMニュース」2月12日号、藤沢・江頭兄執筆の巻頭言)

●奇しき縁、ふしぎなわざ

私事で恐縮ですが、私は出版社の東日本支社勤務時代、家内と共に仙台に4年半駐在した經驗があります(後に盛岡にも1年半駐在)。営業車で宮城、岩手の両県の高等学校と書店をくまなく訪ね歩きました。仙台では太白山近くの太白教会に籍を置いていました(阿部頌栄牧師がまだ“頌栄ちゃん”と呼ばれていた小6から高1のはじめぐらいの期間)。私たちが支援活動を始める際、阿部師と百合香夫人が牧会する仙台富沢教会がすでにそこに備えられていたことに奇しき縁、ふしぎなわざを思います。

今もなお阿部師が東北地区でたいへん重要な役割を担っておられ、その後東松島市に常駐体制を敷く要が生じた時、大瀬勝昭兄(浦和)が手を挙げられ、「ゆうあいホーム」(元理髪店の店舗を借り受けた)を拠点に地元密着型の支援活動を繰り広げたことにより地元の方々とより強い絆で結ばれた。仙台富沢教会とゆうあいホームという2つの拠点が与えられたことの意義は大きかったと思います。見えざる大きな力が働いたと感じました。

●「復興はまだ半ば」

忘れてはならないことは福島第一原発も大津波により建屋が冠水、炉心がメルトダウンしたことです。10年経った今、街並みはきれいに整えられたように見えますが、メルトダウンの問題は、汚染水の処理などいまだに解決の目途が立っていないことです。大晦日の晩、石巻に住む男性が「復興もまだ半ばだよ」と言っておられました。